2014年01月20日
バラの贈り物 NEW
このエッセイはだいぶ前に一度書いたものですが、思うところあってもう一度あの時を振り返り、思い出しながら書いてみました。よろしければお読みください。
バラの贈り物
もうだいぶ前の話です。そう、もう20年近く前。
私はその夏、南インドの小さな町でホームステイをしていました。
精神的な成長を求めてこの地を訪れたのです。
ホームステイといっても離れのひと部屋を借りるだけなのですが、そこは水道もなく湧水をすくって日常を送っていました。
お昼休み、私はお寺の近くにある大木の下に座って本を読むのが常でした。
インドの暑い夏。しかしそこだけは、木陰に包まれ、いつも爽やかな風が吹いているのです。
やがて地元の子供達と仲良くなるようになりました。そこには学校に行けない子供も多くいて、私がノートを差し出し、「ここに何か書いてみろ」というと子供たちは喜んでそこにいろんなものを書いてくるのです。
自分の名前を書いたり、数字の100までかけることを自慢する子などなど・・
そして、仲良くなった彼らの傷の手当てを日本から持ってきた消毒液とリバテープを使って行うようになりました。
彼らの多くが裸足で生活しています。身体中に小さな傷跡が無数にあります。
ほんの小さな手当に過ぎませんでしたが、彼らはそれをとても喜んでくれました。
そんなある日、若いホームレスのお父さんが2歳くらいの子を連れてやってきました。
「私の息子を治して欲しい」、彼はそう言いました。
彼の奥さんは道端で物乞いを行っていて、その子のことも時々見ていました。
しかし、そのお父さんが子供の傷を見せたとき、それは簡単なものではないことを察しました。男の子の性器の周りに無数の出来物があるのです。
私が行えるのはそこを消毒液で拭く事だけです。しかしそれでも父さんは喜んで両手を合わせて深く私に感謝してくれました。
次の日も次の日もお父さんは子供を連れてやってきました。
「どうすればこの子を治すことができるのか?」そんな思案にくれているとき、たまたま日本人の若い女医がその街を訪れました。
彼女にすぐさま、男の子を診てもらうことができました。
「梅毒の可能性がある」その女医は傷を見てすぐさまこう言いました。
すぐに病院に連れていく必要がありました。もし、梅毒だとしたらそれは両親も感染していることを示し事態はさらに深刻なものとなります。
その翌日、リクシャーという三輪駆動に親子を乗せ、遠く離れた無料で診療を行っている病院に向かいました。
いくつかの検査をし、とうとう日本では見かけない大きな注射が子供に打たれました。
幸い梅毒ではなく、あと一回の治療で子供は完治するとのことでした。
その間も父親は泣き叫ぶ子供をしっかりと抱きしめ、誠実な態度で医者とも向き合いました。
その姿に私は感銘さえ受けました。家もなく、その日暮しの彼らですが、その父親の子供に対する深い愛を感じたのです。
病院からの帰り、私たちは子供服の店に立ち寄りました。
その子は着る服もなくほとんど裸の生活です。衛生的にも彼の服が必要でした。
洋服屋で彼らが選んだのは、10歳くらいの子が着るサイズです。
これであれば、大きくなっても着ることができる、というのがそれを選んだ理由でした。
その数日後、私が日本に帰る日が来ました。
私は知り合いになったリクシャーの運転手にお金を渡し、来週その親子を病院まで連れて行く手配を済ませていました。
親子には知らせずそこを去ろうと思っていました。
しかし、リクシャー乗り場に行くと彼らがそこで待っていました。
「今日帰る」ということを知った彼らは、そこで何時間も私を待っていたようです。
いつもは道端で物乞いをしている母親も一緒で生まれたばかりの乳飲み子を両手に抱いていました。
その家族の一人ひとりがバラの花を持っていました。それは私に贈るためのものでした。
その花を買うために彼らが使ったお金を考えると心が痛みました。
しかし私にとってその贈り物はどんなものにも劣らぬ最高のプレゼントでした。
そのバラを受け取るとき、涙をこらえるのがやっとでした。
やがて私を乗せたリクシャーは、そのエンジンをフルに稼働させ大きな音を出しながら空港へと向かいました。
その途中、リクシャーの運転手が私にこう言いました。
「あの家族は子供の病気を治すために毎日神に祈っていた」
「そしてその祈りに応えてあなたが来た」
私はその言葉の重みを深く感じました。
その家族とのふれあいの中で最高の贈り物を頂いたのは、他でもない私自身であることに気づかされたのです。
やがて夕方を迎えようとするインドの夏空にオレンジ色の龍のような雲が現れました。
それはあまりにも鮮明でさりげなく、そして美しいものでした。
バラの贈り物
もうだいぶ前の話です。そう、もう20年近く前。
私はその夏、南インドの小さな町でホームステイをしていました。
精神的な成長を求めてこの地を訪れたのです。
ホームステイといっても離れのひと部屋を借りるだけなのですが、そこは水道もなく湧水をすくって日常を送っていました。
お昼休み、私はお寺の近くにある大木の下に座って本を読むのが常でした。
インドの暑い夏。しかしそこだけは、木陰に包まれ、いつも爽やかな風が吹いているのです。
やがて地元の子供達と仲良くなるようになりました。そこには学校に行けない子供も多くいて、私がノートを差し出し、「ここに何か書いてみろ」というと子供たちは喜んでそこにいろんなものを書いてくるのです。
自分の名前を書いたり、数字の100までかけることを自慢する子などなど・・
そして、仲良くなった彼らの傷の手当てを日本から持ってきた消毒液とリバテープを使って行うようになりました。
彼らの多くが裸足で生活しています。身体中に小さな傷跡が無数にあります。
ほんの小さな手当に過ぎませんでしたが、彼らはそれをとても喜んでくれました。
そんなある日、若いホームレスのお父さんが2歳くらいの子を連れてやってきました。
「私の息子を治して欲しい」、彼はそう言いました。
彼の奥さんは道端で物乞いを行っていて、その子のことも時々見ていました。
しかし、そのお父さんが子供の傷を見せたとき、それは簡単なものではないことを察しました。男の子の性器の周りに無数の出来物があるのです。
私が行えるのはそこを消毒液で拭く事だけです。しかしそれでも父さんは喜んで両手を合わせて深く私に感謝してくれました。
次の日も次の日もお父さんは子供を連れてやってきました。
「どうすればこの子を治すことができるのか?」そんな思案にくれているとき、たまたま日本人の若い女医がその街を訪れました。
彼女にすぐさま、男の子を診てもらうことができました。
「梅毒の可能性がある」その女医は傷を見てすぐさまこう言いました。
すぐに病院に連れていく必要がありました。もし、梅毒だとしたらそれは両親も感染していることを示し事態はさらに深刻なものとなります。
その翌日、リクシャーという三輪駆動に親子を乗せ、遠く離れた無料で診療を行っている病院に向かいました。
いくつかの検査をし、とうとう日本では見かけない大きな注射が子供に打たれました。
幸い梅毒ではなく、あと一回の治療で子供は完治するとのことでした。
その間も父親は泣き叫ぶ子供をしっかりと抱きしめ、誠実な態度で医者とも向き合いました。
その姿に私は感銘さえ受けました。家もなく、その日暮しの彼らですが、その父親の子供に対する深い愛を感じたのです。
病院からの帰り、私たちは子供服の店に立ち寄りました。
その子は着る服もなくほとんど裸の生活です。衛生的にも彼の服が必要でした。
洋服屋で彼らが選んだのは、10歳くらいの子が着るサイズです。
これであれば、大きくなっても着ることができる、というのがそれを選んだ理由でした。
その数日後、私が日本に帰る日が来ました。
私は知り合いになったリクシャーの運転手にお金を渡し、来週その親子を病院まで連れて行く手配を済ませていました。
親子には知らせずそこを去ろうと思っていました。
しかし、リクシャー乗り場に行くと彼らがそこで待っていました。
「今日帰る」ということを知った彼らは、そこで何時間も私を待っていたようです。
いつもは道端で物乞いをしている母親も一緒で生まれたばかりの乳飲み子を両手に抱いていました。
その家族の一人ひとりがバラの花を持っていました。それは私に贈るためのものでした。
その花を買うために彼らが使ったお金を考えると心が痛みました。
しかし私にとってその贈り物はどんなものにも劣らぬ最高のプレゼントでした。
そのバラを受け取るとき、涙をこらえるのがやっとでした。
やがて私を乗せたリクシャーは、そのエンジンをフルに稼働させ大きな音を出しながら空港へと向かいました。
その途中、リクシャーの運転手が私にこう言いました。
「あの家族は子供の病気を治すために毎日神に祈っていた」
「そしてその祈りに応えてあなたが来た」
私はその言葉の重みを深く感じました。
その家族とのふれあいの中で最高の贈り物を頂いたのは、他でもない私自身であることに気づかされたのです。
やがて夕方を迎えようとするインドの夏空にオレンジ色の龍のような雲が現れました。
それはあまりにも鮮明でさりげなく、そして美しいものでした。
Posted by 比嘉正央 at 11:33│Comments(0)
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