2011年06月27日
それでも教師ですか
あこがれの教員養成大学に入学して、はじめてのテスト。
専門教科の中で最も難しいテストの最中のことでした。
一人の男子学生がメモを書いた小さな紙を前方の女子学生にそっと渡しました。
「問題○○番の答えを教えてくれ」
それを受け取った彼女はメモの裏にこう書きとめ、差出人に返しました。
「将来、教師を目指すものがこんなことをしていいのだろか」
・・・・・・・・・・
その後しばらくの間、男子学生の間でこのことが話題になりました。
「今時、そんな硬い考えを持っている者がいるのか」と彼女の行為を面白おかしく受け取り、笑いの種にしていました。
私もそんな一人で、直接彼女をからかったこともありました。そのとき彼女は照れるように「もう、そのことは話題にしないで」と言ったのを覚えています。
しかし、今ではそんな彼女を笑った自分を恥ずかしく思います。
彼女は純粋で真っ直ぐな人でした。しかし、何にも負けない強さを持っていたわけでもなかったと思います。外見はいつもにこやかで男子学生のからかいにも笑顔で切り替えしたりしていましたが、一人悩むことも多かったのではないでしょうか。
共に経験した初めての教育実習。彼女の授業を参観した私は、その見事な教えっぷりに深く感心しました。しかし、彼女は「こんな私が教師としてやっていけるのか」と深く悩んでいたようです。妥協を許さず、とことん理想や自分自身を追い求めていく彼女ゆえの悩みだったのかもしれません。
あれから30年近く。彼女は教師として今も彼女らしく生きているようです。
時折、入ってくる情報を耳にするたびに「彼女らしいな」と思わずにはいられません。
生徒の目線で生徒と共に、時に互いをぶつけ合いながらも真っ直ぐに理想に向かって歩んでいるようです。その目指すものが手に届かないとしても、その過程を通して大切なものをすでに彼女は手に入れているのではないでしょうか。
彼女は本物の教師です。
教師の真の評価ができるのはまずは生徒です。彼女の教え子たちは、彼女の行き方を通して多くのことを学んでいるのではないかと想像します。きっとその出会いを今は気づかずとも深く感謝できる日がくることでしょう。
本当に必要とされる教師が真の評価を得られる日がくることを信じています。
子供のために努力できる教師だけが生徒を導くことができます。
あの時の自分を反省しながら、彼女のような教師にこれからもエールを送りたいと思います。
2011年06月14日
学校をつくろう
学校をつくりませんか
私が学校をつくりたいと思ったのは今から20年ほど前。漠然とした思いでした。
それから、「学校をつくらなければならない」と強い気持ちを持つことになったきっかけがその数年後にありました。
それは私がある県立高校で勤めているときの高校入試合否判定会議。
ある受験生を入学させるかどうかで会議は最終局面を迎えていました。
入学させるための定員枠は残っていました。しかし、最後に出された答えは不合格。
その受験生が合格できなかった大きな理由は学力テストの点数ではなく、中学時代の不登校の日数の多さでした。今では不登校の生徒の扱いについてはある程度理解が進んでいます。しかし当時はそうではなかったのです。
ぜひ、入学させてチャンスを与えよう、というのは少数意見で全体の理解に及ぶところではありませんでした。「不登校の生徒は教師に負担がかかってしまう」という意見もありました。
私は悔しさのあまり、顔を上げることがしばらくできませんでした。唇をかみ締めながらその時私は自分自身に誓ったのです。
「学校をつくることを」
形になるかどうかさえわからない、漠然とした想い。「学校をつくる」というそんな大きなことが、こんなちっぽけな人間にできるのか?
しかし、想いは天に届くのですね。
HIV人権ネットワーク沖縄というNPOで来年、ネパールに学校をつくることが決まり、その準備が始まりました。このNPOを支えてきた仲間の理解、そしてネパールのNGOとの提携ができたのです。
貧しさゆえに小学校に通うことのできない子供たちに「人生を自分の力で切り開いていく力」をつけさせ、社会や国家に貢献できる人材を育成していきたいと思います。
そして、数年後にここ沖縄でも学校を設立するということが、現実味を帯びてきたようにも思えます。
人生はチャレンジ
一度しかないこの人生を次の世代のために、そして世界中のご縁ある人々との出会いを求めて存分にやりきりたいと思います。
学校の目指す教育は「人格形成教育」
人間として大切なことをしっかり学べる学校をつくっていきたいと思います。
もし、御賛同していただける方がいらっしゃいましたら8月に行う予定の説明会ご案内をお待ちください。賛同する誰もが協力者になれます。あなたの力をあなたとご縁のある子供が待っています。
お問い合わせなどは下記の電話番号まで
098-886-1415(比嘉)
私が学校をつくりたいと思ったのは今から20年ほど前。漠然とした思いでした。
それから、「学校をつくらなければならない」と強い気持ちを持つことになったきっかけがその数年後にありました。
それは私がある県立高校で勤めているときの高校入試合否判定会議。
ある受験生を入学させるかどうかで会議は最終局面を迎えていました。
入学させるための定員枠は残っていました。しかし、最後に出された答えは不合格。
その受験生が合格できなかった大きな理由は学力テストの点数ではなく、中学時代の不登校の日数の多さでした。今では不登校の生徒の扱いについてはある程度理解が進んでいます。しかし当時はそうではなかったのです。
ぜひ、入学させてチャンスを与えよう、というのは少数意見で全体の理解に及ぶところではありませんでした。「不登校の生徒は教師に負担がかかってしまう」という意見もありました。
私は悔しさのあまり、顔を上げることがしばらくできませんでした。唇をかみ締めながらその時私は自分自身に誓ったのです。
「学校をつくることを」
形になるかどうかさえわからない、漠然とした想い。「学校をつくる」というそんな大きなことが、こんなちっぽけな人間にできるのか?
しかし、想いは天に届くのですね。
HIV人権ネットワーク沖縄というNPOで来年、ネパールに学校をつくることが決まり、その準備が始まりました。このNPOを支えてきた仲間の理解、そしてネパールのNGOとの提携ができたのです。
貧しさゆえに小学校に通うことのできない子供たちに「人生を自分の力で切り開いていく力」をつけさせ、社会や国家に貢献できる人材を育成していきたいと思います。
そして、数年後にここ沖縄でも学校を設立するということが、現実味を帯びてきたようにも思えます。
人生はチャレンジ
一度しかないこの人生を次の世代のために、そして世界中のご縁ある人々との出会いを求めて存分にやりきりたいと思います。
学校の目指す教育は「人格形成教育」
人間として大切なことをしっかり学べる学校をつくっていきたいと思います。
もし、御賛同していただける方がいらっしゃいましたら8月に行う予定の説明会ご案内をお待ちください。賛同する誰もが協力者になれます。あなたの力をあなたとご縁のある子供が待っています。
お問い合わせなどは下記の電話番号まで
098-886-1415(比嘉)
2011年06月13日
スメルシュ
先生のひとりごと 「スメルシュ」
4月のタミール地区の夜は穏やかながらも世界中から集まった人々の熱気に包まれているかのようでした。
ここはネパールの首都カトマンズにある外国人が集う繁華街です。わずか数百メートルの狭い道なりに多くのホテルやレストラン、商店街が集います。
半年ぶりに訪れたこの地。しかし、夜の光景の中では明らかに変化のあるものがありました。
それは・・・ストリートチルドレンの多さです。彼らは繁華街から少し離れた道路沿いに寝、夜9時ごろを過ぎると外国人に食料やお金をねだりにくるのです。
5,6名で一つの集団を作りやっていますが、その数は確実に増えていました。
しかも・・・
彼らのうちの数名が空腹を満たすためでしょうかシンナーをやりながら歩いています。回し飲みしている様子もうかがえました。
そして西洋人を見つけては食料やお金をねだり続けるのです。
そんな中、私は一人の少年と話す機会がありました。彼の名はスメルシュ、11歳。
私は近くのパン屋で買った丸い大きなパンを二つ手にし、座ってシンナーをする彼に近づきました。
「やめなさい」という言葉も彼らには何の効き目もありません。スメルシュもいったんシンナーから口を離しましたが、すぐにでも続ける様子でした。
しかし、私の手にあるパンを見つけた彼の目の色が一瞬、変わりました。
彼はズボンの左側ポケットにシンナーの入ったビニールをしまい、差し出したパンを手に取りました。
その時にはもう彼の目はシンナーをするうつろな眼ではありませんでした。
彼は仲間に均等にパンをわけました。遠くでその光景を見つけた小さな子供たちが一人、また一人と走ってやってきました。
スメルシュはそんな仲間にもパンをしっかり分け与えました。自分の分がだんだん少なくなっても半分ずつわけながら仲間に与えていきました。
・・・・・彼らはこれまでもきっと、そんな風に生きてきたのでしょう。
寒い夜には互いの身体を重なり合わせ、空腹のときには分け合い・・・・
スメルシュは私が手に持っていたカメラで自分を撮ってほしいといいました。何気なく、周りの仲間たちにもカメラを向けると彼らは一様に両手で顔をふさぎます。
ストリートチルドレンの多くが写真を嫌がっていることをはじめて知りました。
親から捨てられた子、あるいは親の虐待から逃げてきた子、いろんな理由があるのでしょう。
ストリートでの生活を続ける彼らの多くが「これは自分が望む生活、本当の自分の姿ではない」と感じているのかもしれません。
スメルシュだけを正面から見据えシャッターを押しました。
精悍な顔つきの彼がしっかりと写っていました。
「僕を忘れないでくれ」と彼は言いました。そして「またきっと会おう」と続けました。
別れ際、果物を乗せたリヤカーが目の前を通りました。
彼らに「果物も欲しいかい」ときくと、遠慮がちに「うん」と答えました。そして彼らは屋台の大人をこう説得したのです。
「彼(私の意)が外国人だからといって高く売りつけないで、彼は僕らのためにこの果物を買おうとしているのだから」
屋台の店主は「わかっているよ」というふうにたくさんの果物を袋につめました。
・・・・・・・・・
世界にはこんな子供たちがたくさんいます・・・・
そんな光景を眼にするにつけこう思います
私たち先進国の人間は何をすべきなのか、何ができるのか。
・・・・・
それができたとしても果たして何人を救うことができるのか
・・・・・
しかし、彼らは今日もたくましく生きているはずです。時にやるせない気持ちを仲間にぶつけながらも互いを必要とし生きているでしょう。
あの分け合うごとに小さくなっていったパン。それでも当然のように分け続けた少年。
彼らが教えてくれた人として大切なことを果たして私にもできるのか・・・
スメルシュのカメラに写ったあの精悍な顔つきはどんなメッセージを発しているのか
・・・それを理解するのはもっとあとのことかもしれません。
4月のタミール地区の夜は穏やかながらも世界中から集まった人々の熱気に包まれているかのようでした。
ここはネパールの首都カトマンズにある外国人が集う繁華街です。わずか数百メートルの狭い道なりに多くのホテルやレストラン、商店街が集います。
半年ぶりに訪れたこの地。しかし、夜の光景の中では明らかに変化のあるものがありました。
それは・・・ストリートチルドレンの多さです。彼らは繁華街から少し離れた道路沿いに寝、夜9時ごろを過ぎると外国人に食料やお金をねだりにくるのです。
5,6名で一つの集団を作りやっていますが、その数は確実に増えていました。
しかも・・・
彼らのうちの数名が空腹を満たすためでしょうかシンナーをやりながら歩いています。回し飲みしている様子もうかがえました。
そして西洋人を見つけては食料やお金をねだり続けるのです。
そんな中、私は一人の少年と話す機会がありました。彼の名はスメルシュ、11歳。
私は近くのパン屋で買った丸い大きなパンを二つ手にし、座ってシンナーをする彼に近づきました。
「やめなさい」という言葉も彼らには何の効き目もありません。スメルシュもいったんシンナーから口を離しましたが、すぐにでも続ける様子でした。
しかし、私の手にあるパンを見つけた彼の目の色が一瞬、変わりました。
彼はズボンの左側ポケットにシンナーの入ったビニールをしまい、差し出したパンを手に取りました。
その時にはもう彼の目はシンナーをするうつろな眼ではありませんでした。
彼は仲間に均等にパンをわけました。遠くでその光景を見つけた小さな子供たちが一人、また一人と走ってやってきました。
スメルシュはそんな仲間にもパンをしっかり分け与えました。自分の分がだんだん少なくなっても半分ずつわけながら仲間に与えていきました。
・・・・・彼らはこれまでもきっと、そんな風に生きてきたのでしょう。
寒い夜には互いの身体を重なり合わせ、空腹のときには分け合い・・・・
スメルシュは私が手に持っていたカメラで自分を撮ってほしいといいました。何気なく、周りの仲間たちにもカメラを向けると彼らは一様に両手で顔をふさぎます。
ストリートチルドレンの多くが写真を嫌がっていることをはじめて知りました。
親から捨てられた子、あるいは親の虐待から逃げてきた子、いろんな理由があるのでしょう。
ストリートでの生活を続ける彼らの多くが「これは自分が望む生活、本当の自分の姿ではない」と感じているのかもしれません。
スメルシュだけを正面から見据えシャッターを押しました。
精悍な顔つきの彼がしっかりと写っていました。
「僕を忘れないでくれ」と彼は言いました。そして「またきっと会おう」と続けました。
別れ際、果物を乗せたリヤカーが目の前を通りました。
彼らに「果物も欲しいかい」ときくと、遠慮がちに「うん」と答えました。そして彼らは屋台の大人をこう説得したのです。
「彼(私の意)が外国人だからといって高く売りつけないで、彼は僕らのためにこの果物を買おうとしているのだから」
屋台の店主は「わかっているよ」というふうにたくさんの果物を袋につめました。
・・・・・・・・・
世界にはこんな子供たちがたくさんいます・・・・
そんな光景を眼にするにつけこう思います
私たち先進国の人間は何をすべきなのか、何ができるのか。
・・・・・
それができたとしても果たして何人を救うことができるのか
・・・・・
しかし、彼らは今日もたくましく生きているはずです。時にやるせない気持ちを仲間にぶつけながらも互いを必要とし生きているでしょう。
あの分け合うごとに小さくなっていったパン。それでも当然のように分け続けた少年。
彼らが教えてくれた人として大切なことを果たして私にもできるのか・・・
スメルシュのカメラに写ったあの精悍な顔つきはどんなメッセージを発しているのか
・・・それを理解するのはもっとあとのことかもしれません。
2011年06月03日
ピス
もう17年前の話。
私が野球監督を務めるグラウンドにいつの間にか野良犬たちが集うようになりました。
はじめに居ついた犬がメス犬で、部員たちが餌をやるうちに住み着き、やがてそのメス犬めあてにオスの犬たちが集まりだしたのです。その数、7,8匹、いやもっといたかもしれません。後になってメス犬が部室で子供を産むなどしてたいへんな騒ぎになったこともありました。
今から思えば、当時はそれがまだ許されていた時代。今では野良犬など、かんたんに学校に入れるものではありません。外を歩いているだけで保健所に捕獲されてしまうでしょう。
当時は部員の疲れた体を和ませてくれる犬たちの存在を私も大目にみていました。
さて、そんないろんな犬たちが集ってくる中、部員たちにピスと名づけられたオス犬がいました。白い毛で覆われたずんぐりとした体に異様に短い脚。ピスと命名されたのは、隙あらばメス犬の体に後ろから抱きつき、ピストン運動をすぐにはじめてしまう理由からでした。
しかし、ピスは人間を恐れていました。誰かに飼われている時期もあったのでしょうか。
それでもきっと一人で生きていく時間の方が多かったのでしょう。殴られたり、石を投げつけられたこともあったのかもしれません。とにかく、人のそばには絶対に近づこうとはしませんでした。
そんなピスのことを私も気にかけていました。ピスは私から食べ物をもらう時でも一定の距離感を保ち、私が遠のいてから餌のところに来、さらに遠くに移動してから食べます。
ピス、ピスと呼んで優しくしているつもりの笑顔を投げかけてもピスとの距離感はなかなか縮まりません。
ある日のこと。
春の穏やかな風が吹く夕方。私は野球の練習をグラウンド後方にある校舎の影に置いた椅子に座り、練習をぼんやりと眺めていました。いつもならグラウンドに選手と共にいて、大声で選手を怒鳴ったりしている時間帯です。その日はなぜか、穏やかな気候に染まるように落ち着いた気持ちになっていました。
ふと、私の脚にかかるふわふわとした感触を覚えました。
私に一番なついている最初に居ついたメス犬のメッシー(いつも餌ばかりせがむのでその名がついていた)だと思っていました。確かめることもなく、体をなで続けていましたが、ふと、妙に毛がふさふさしていることに気づきました。思わずその方を見ると・・
なんとピスだったのです・・・
ピスはすっかり心を許したように私のそばでくつろいでいました。
私も嬉しくて体全体を強くそして優しくなでました。
今から思えば野球の監督としていつも気を張り詰めていた毎日。ピスは私が穏やかになる時を待ち続けていたのかもしれません。
その時を境にピスはグラウンドや校内の片隅で私が来るのを待つようになりました。
私をみつけると短い脚をフルに回転させ走ってくるのです。
それから1ヶ月もたたないうちに私の転勤の日がやってきました。中部から那覇の学校へ移動が決まったのです。
あわただしい転勤前の日々の中で、ピスのことを気にかけることはありませんでした。片づけをしながら次の学校の仕事の準備もはじまっていました。
そして新しい学校でのスタート。私の頭からピスのことは完全に消え去っていました。
それから4ヶ月後。仕事のため、久しぶりに前任校を訪問することになりました。懐かしい職員や生徒に会うことが楽しみでした。
車で校門をくぐるととても懐かしい気持ちになりました。
ワクワクするような心持で在任中にいつも車を停めて置いた場所に向かって車を走らせました。
そのとき、大声で泣く犬の鳴き声に気づきました。
サイドミラーで後方を見ると、一匹の犬が必死に私の車を追いかけているのです。
わが目を疑いました。そう、あのフル回転する短い脚・・ピスでした。
車のドアが完全に開かないうちにピスは私に抱きついてきました。
私の中では完全に忘れていたのにピスは覚えていてくれたのです。しかも私にとっての4ヶ月の空白の時間もピスにとっては、関係ないものだったのです。
犬は人間に奉仕する生き物、とも言われています。
私はピスから大切なものを受け取りました。
・・・・ さて、あの犬たちはその後どうしたのでしょう。
寿命を全うしたのか、捕獲でもされたのか、それとも・・・
きっとそれぞれの犬たちに様々なその後があったことでしょう。
彼らの血を受け継いだ彼らの子孫が残っていることも考えにくいことです。
そうそうこんなこともありました。
一度、学校に保健所の職員が犬の捕獲のためにやってきたことがあります。近所から通報があったとのこと。それも当然のことでしょう。
プロの手にかかれば野良犬とて容赦なく捕まります。
周りも騒然とする中、一人の野球部員が、全ての犬たちを部室の中に入れました。そして、入口で自らの身体を張って保健所の職員の捕獲を阻止したのです。必死な姿でした。
その時代が許してくれたこともあったでしょう。職員はいくつかの注意点と対策を講じるよう話したあと、そのまま帰っていきました。
余談ですが、私はその部員をキャプテンに指名しました。
やんちゃで子供っぽいところの多々ある男でしたが、よく務めたと思います。
この年は学校創立以来の優勝を成し遂げた年でもありました。
2011年06月02日
首相
2日。政局は重要な局面を迎えつつあるようでした。
内閣不信任案の提出です。
政治には無関心な私ですが、この日は朝から注目していました。
私の周りでも菅首相に対する評判はいいものではありません。経済の推進を図りたい人にとっては尚更のような気もしています。
しかしこれは、あくまでも私の身近で感ずるもので、今のわが国にとって何が良いのか、誰が良いのか、私にはまったくわからないことです。
お昼前、民主党の代議士会での首相の発言がありました。
私はその内容を聞いて、涙が自然と出るほどの感動を覚えました。
彼は自分の言葉で,素のままの感情で話していたように思えました。
ゆっくりと話す数分間、彼は自らの反省や謝罪を素直に述べながらも、誰をも責めることがありませんでした。他の政党の代議士の努力も認めつつ、自分のやるべきことを震災の復興の道筋ができるまで、全うしたいとの謙虚な気持ちを述べたのです。
四面楚歌とも思える状況の中で怒りや無念さを出さず、冷静に語れる人は多くはいないと思います。
内部からも造反が出ようとする中、怒りや一時的な感情の高ぶりですべてを投げ出すこともできたでしょう。しかし彼はそうではありませんでした。
自らの人間としての責任を全うする中で、全体を見て自らの進退を決意し、そして仲間の分裂を避けるために勇断を行ったのです。
主義主張や、その仕事ぶりについて私の理解の及ぶところではありません。
しかしそれでも、一人の人間としてのあの対応は見事だったと思うのです。
国や民のことを真剣に考える本物の政治家の一人だと私には感じました。
政治家は国会でやじを飛ばし、相手の弱点をねらい追求していくことができなければ務まらないのでしょうか。選挙で勝てなければリーダーも務まらないのでしょうか。
本来ならば、各政党のリーダーも立場や主張を超え、この震災の復興のために手を取り合うことがあっても良かったのでは、と思うのです。
もし、野党の中からでも、立場を超え、リーダーシップを発揮し結束を呼びかけることのできる人がいたのならば、
そのような人こそ、国を代表する人となるべきだと思うのです。
内閣不信任案の提出です。
政治には無関心な私ですが、この日は朝から注目していました。
私の周りでも菅首相に対する評判はいいものではありません。経済の推進を図りたい人にとっては尚更のような気もしています。
しかしこれは、あくまでも私の身近で感ずるもので、今のわが国にとって何が良いのか、誰が良いのか、私にはまったくわからないことです。
お昼前、民主党の代議士会での首相の発言がありました。
私はその内容を聞いて、涙が自然と出るほどの感動を覚えました。
彼は自分の言葉で,素のままの感情で話していたように思えました。
ゆっくりと話す数分間、彼は自らの反省や謝罪を素直に述べながらも、誰をも責めることがありませんでした。他の政党の代議士の努力も認めつつ、自分のやるべきことを震災の復興の道筋ができるまで、全うしたいとの謙虚な気持ちを述べたのです。
四面楚歌とも思える状況の中で怒りや無念さを出さず、冷静に語れる人は多くはいないと思います。
内部からも造反が出ようとする中、怒りや一時的な感情の高ぶりですべてを投げ出すこともできたでしょう。しかし彼はそうではありませんでした。
自らの人間としての責任を全うする中で、全体を見て自らの進退を決意し、そして仲間の分裂を避けるために勇断を行ったのです。
主義主張や、その仕事ぶりについて私の理解の及ぶところではありません。
しかしそれでも、一人の人間としてのあの対応は見事だったと思うのです。
国や民のことを真剣に考える本物の政治家の一人だと私には感じました。
政治家は国会でやじを飛ばし、相手の弱点をねらい追求していくことができなければ務まらないのでしょうか。選挙で勝てなければリーダーも務まらないのでしょうか。
本来ならば、各政党のリーダーも立場や主張を超え、この震災の復興のために手を取り合うことがあっても良かったのでは、と思うのです。
もし、野党の中からでも、立場を超え、リーダーシップを発揮し結束を呼びかけることのできる人がいたのならば、
そのような人こそ、国を代表する人となるべきだと思うのです。