【PR】

  

Posted by TI-DA at

2014年07月25日

セディック・バレ

セディック・バレという2本立ての映画をDVDで観賞しました。
それは、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった 台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日暴動事件を扱った映画です。
霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした男たち300人ほどが、霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校で行われていた小学校・公学校・蕃童教育所の連合運動会を襲撃。日本人約 140人が殺害されました。

その後日本軍により彼らはほぼ壊滅。頭目モーナ・ルダオも山中で自決します。そして、女・子供たちも悲惨と言える最期を遂げていきます。勝ち目がないことを承知の上での蜂起だったのです。

死を覚悟しながらもなぜ彼らは立ち上がらなければならなかったのか?

映画では、部族出身者らを演技指導し彼らが主役を演じています。
しかも、原住民と日本人。どちからかを完全な悪とはせず、それぞれの人間模様が描かれています。
壮大な時代の流れに翻弄される人々。それでも誰もが必死に生きているその姿が映し出されています。


さて、私の話はこの映画のことだけではありません。
 観終わった後に感じたむなしさがありました。

 それは、私がこの「霧社事件」のことを何も知らなかったことです。

 中学の教科書でたった一行、この文字が記されていたことだけは明確に覚えています。
 授業で先生が読み流しただろうこの1行を、振り返ることもせず、ただテストのためだけの点数を取る対象でしかなかったのです。

 本当の勉強をしたかった、歴史から学ぶべき真に価値ある勉強がしたかった、という悔しさに似た感情が私を包みました。

 しかし、学校での授業スタイルはほとんど変わることはないでしょう。
 多くの子供たちが何のために勉強しているのか、よくわからないまま学校に通っているのです。

 学力向上は大切でしょうが、視点がずれては困ります。
 
 私は勉強に常に人間的価値観を盛り込むことを提唱しています。

 どの教科でも知識と共にそれを教えることが重要です。

 たとえば霧社事件を教える時に、すべての人を同じ人間として触れ合い、その文化をも尊重していくことが重要である、と価値観を盛り込むことができるでしょう。

 そして周りの批判を恐れずに、子供の立場に立った真の教育を推進できる教師の出現も求められているのです。
  


Posted by 比嘉正央 at 09:00Comments(0)先生のひとりゴト