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Posted by TI-DA at

2012年06月17日

2番目の奇跡

2番目の奇跡

これは私が「性・エイズ」に関して電話相談を行っている中で実際に起きた「奇跡」です。

それは県外の男性からの電話相談でした。
「風俗に行きました。体調も悪い、HIVに感染しているのではないか」
そして、その男性は最後にはとうとう泣き出してしまいました。

 それが3日間、続きました。

 電話からもその優しそうな人柄が伺えるようでした。風俗に行ったことで自分を責めているようなところも感じられました。
 その人のことがとても気がかりだったので、着信録から時々、こちらからも電話をかけました。
 「HIVは侮ってはいけませんが、簡単に感染するウイルスではありません。あなたの場合もきっと大丈夫」

 こんなやりとりが続く中、彼は自分のことを語ってくれました。
 年齢は30代、子供もいる彼がなぜ風俗に行ったかを、そしてなぜ自分をこんなにも責めるのかがわかることを・・・

 彼は奥さんを事故で亡くしていました・・・
 それはご主人の実家に孫を見せてやりたいという奥さんの優しい配慮から・・・
 病弱の義父にそのことで元気になって欲しい、という想いから・・
 その途中で奥さんはご自分で運転する車で事故に巻き込まれ帰らぬ人となってしまったのです。
 小さなお子さん(男の子)二人は奇跡的に助かりました・・

 「なぜ、妻と子供だけを行かせてしまったのだろう」
 彼は自分を責め続けました。
 しかし、夜遅くまで仕事をする彼には一緒に実家に行ける時間さえもなかったのです

  そのうち、彼は死ぬことばかりを考えるようになりました。
 二人の子供を抱き海に飛び込もうか、それとも電車か・・・

 そんな折、同情した同僚たちがかれを励まそうと風俗に誘い、
 結局はそのことが、私と彼とをつなげることにもなりました。

 HIVは問題ないと片付けられても気になる体調不良。
 彼は精密検査のために病院を訪れました。
 そして、その病院から紹介された大学病院での検査で彼の奇病が発見されました。
 宣告「今の医学では治せない奇病、長くて10年早ければここ数年以内」

 それを告げられた時の彼の気持ちはどんなものだったでしょう。
 しかし、死は彼が渇望していたものでもあったのです。

 二人の子供の寝顔を見ながら、お風呂に無邪気に遊ぶ子を見ながら、保育園に向かいに来た父親に飛びついて喜んでいる子を見ながら、彼はこう考えました。
 残された日々、この子達のためにも少しでも長く生きよう・・・

 そんなことがあってから時折かかってくる彼の電話での声がハリのある声に変わっていきました。収入はいいが夜の遅い仕事を辞め、子供のために時間を作れる仕事へと転職もしました。
 子供のために一日一日を懸命に過ごす彼。

 そしてそれから数ヵ月後、1番目の奇跡が起こりました。

 病気の進行を図るべく行った定期診断。
 そこで彼の奇病が消えていることが判明されたのです。
 まだ、興奮冷めやらぬ病院から私はその報を受けました。

 彼の子供のために明るく生きようとするその力が奇病さえも克服する力になっていたのです。少なくとも私はそれを信じています。

 そして、3人家族の新たな人生が再スタートしました。

 おかげさまで私と彼との関係は電話を通じ今でもずっと続いています。
 NPOの事務所にその方の故郷で捕れた旬の魚が大量に送られてきたこともあります。
 
 最初の電話から4年。2番目の奇跡がおきました。

 二人の男の子は元気に育っています。
 二人は信号を渡るのが大好き。誰が一番先に向こう側へ着くか競争するのです。
 ある日曜日、遊園地から帰ろうとする3人に交差点の赤信号が待ち構えていました。
 青になる瞬間を捉えようと今か今かと待ち受ける二人。
 一人がお父さんの右手を、一人が左手を握り、3人で「ヨーイ」の姿勢。

 その時・・・・

 後ろから香水の匂いが強く漂ってくるのを3人は感じました。
 それは生前、その子のお母さんが好んでつけていた香水。
 おもわず、3人で後ろを振り返りました。
 もちろん・・・そこには誰もいません。
 その直後です。
 渡ろうとした交差点を一台の信号無視の車が猛スピードで走り抜けていきました。

 「もし、あのまま渡っていたら・・・」

 彼は私に電話でこう話しました。
 「何かいつも妻に護られている気がしていた、時々その存在を感じるようなことがあった」「しかし、今はそれが確信に変わった」と。

 この4月。二人のお子さんは晴れて小学校へ入学しました。実は双子だったのです。
 母親のいない不憫さに申し訳ないと感じつつも彼も明るく頑張っています。
 その彼が今一番気にかけていること、それは「児童虐待」です。そのニュースをみるにつけ優しい彼は心を痛め、何とかしたい、と思うようになりました。今では地域でも積極的に子供のための活動に関わるようになっています。

 いつの日か彼の誠実さが起こす3番目が起こるかもしれません。
 彼は生きています。
 運命を受け入れ、自分の使命に向かい歩んでいます。
 いつの日か彼とも会える日が来ることを信じています。
 二人の子の成長を心より祈りたいと思います。
 
 
  


Posted by 比嘉正央 at 10:36Comments(1)先生のひとりゴト

2012年06月15日

一番目の教え子

一番目の教え子

私の一番目の教え子はTという男です。
彼とは大学3年時の教育実習で初めて出会いました。

東京にある大学付属高校の3年生でした。野球部でもあった彼とはすぐにウマが合い、その付き合いは今でも30年続いています。
わずか2週間の実習でこんな素晴らしい付き合いが続いているので本当にありがたいことです。

ちょうどその実習期間に学園祭があり、彼はクラスの演劇で主役を務めていました。普段からは想像できない(?)迫真の演技で多くの感動を呼び見事学園祭の最高の賞をクラスは勝ち取りました。全員の団結も見事なものでした。
彼は志も大きく、大らかな性格でもあり皆の人気者的存在でもありました。
野球部では4番でしたが、華麗な打撃、というよりも予想外の打球(どん詰りなど)で試合を決めていくというタイプだったと思います。
 
 傑作なのは彼の引退後、自分の背番号を密かに恋心を抱いているクラスの女の子に手紙と共に郵送したことです。その子も驚いたことでしょう。その後その子からはなんの返事もなかったので、その背番号がどうなったかは未だに謎のままです。

 彼の大学時代は毎年夏休みに私が務める西表島を訪問。最後の夏には仲間数十人を引き連れ来島。一生の思い出になる楽しいひと時を過ごしました。
 そんな彼も大学を卒業後、アメリカの大学院に進学。今では有名大学の教授を勤めながら全国で観光業に関する様々な大プロジェクトを手がけています。
 彼曰く「その道の第一人者」だそうです。もちろん私は彼の言葉を信じていますが、その関係で頻繁に沖縄にも来るようになり、深いご縁を感じる次第です。

ちなみに彼は2度結婚しました。それがどれも同じ相手というところも彼らしさです。
現在は二人のお子さんもしっかりと成長し両親を喜ばせているようです

「沖縄のために・・・」それが口癖の彼。東京生まれ、東京育ちの男は、純で真っ直ぐな心を武器に人生をしっかりと歩んでいます。

 出会い、それは大きな財産でもあるのですね。
  


Posted by 比嘉正央 at 07:50Comments(0)先生のひとりゴト