【PR】

  

Posted by TI-DA at

2018年07月14日

彼女の仕事

彼女の仕事

南インドの4月の暑さは、そこに居るだけで体力を奪っていく。訪れた小さな村の路上で観光客に声をかけ何かを売っている女性がいる。インド人のセールスは誰もが強気に高く売りつけようとするが、彼女はどこか遠慮がちでこの街には似合わない雰囲気があった。さり気なく彼女のそばを通り抜けようと、彼女の横顔を覗いたときに「ハッ」とした。その顔つきと指先のなくなっている手から彼女が「ハンセン病者」であることがわかった。側により売っている商品を見るとそれは伝説的なインド聖者の写真だった。「10ルピー(18円)」と彼女は言った。多めに20ルピー払って一枚頂こうとすると、彼女は戸惑った様子でもう一枚を手の表面を使って抜き出し、私に差し出した。そんな彼女の仕草が私にはとても健気に写った。 日本で想像を絶する差別にあったハンセン病。数十年も前に治癒する病になったにもかかわらず偏見や差別は今でも続く。ましてや途上国において、私があった多くのハンセン病者は路上で物乞いをしていた。かつて日本でもうそうであったように・・
 翌日同じ場所に彼女はいた。同じ写真を10枚購入すると薄い紙の写真をなぞるように丁寧に10枚抜き出す彼女。「写真を撮ろう」と言うと自分の顔を指差し、「写真はいや」と遠慮した。私の顔を真っ直ぐに見てそういう彼女に、生き抜いてきた強さを観た。
 「決して人を傷つけず、いつでも助けなさい」。聖者の写真にはその言葉が書かれていた。
  


Posted by 比嘉正央 at 20:09Comments(0)先生のひとりゴト

2015年04月09日

サン オブ ゴット

サン オブ ゴット

 イエスの生涯を描いた映画を観ました。
 史実に忠実に描かれた映画だと思いました。

 そこには誇張のない、「人間イエズ」が描かれています。

 真の信仰に生きようと唱える彼と社会体制や自らの立場を優先する者との
 対立がより人間的に描かれています。

 十字架の上で「神よなぜ、私をお見捨てになるのですか」と問いかけるイエズ。
 そして同じ十字架上で神のみ心をやがて理解するイエズ。

 イエズを裏切りその後自殺するユダ
 イエズが捕えられたとき、3度「私は彼を知らない」というペドロ

 イエスを含め、そこに生きるすべての人が「神への信仰」を試されているかのようでした。
 もちろんそれは今日も私たち自身に起きていることです。

 クリスチャンはもとより神様を信じるすべての人に観てもらいたい映画だと思いました。
 宗教を超えた深い慈しみもまた忠実に描かれているのです。

 彼を磔にし下げすさむ兵士のために、イエスは「彼らの罪をお許しください」と神に祈ります。
 それの少しでも「人を許す心がほしい」と思いました。

 映画館はほんの一握りの観客でしたが、映画が終わっても誰も席を立とうとしませんでした。
 私のハンカチは大きな役割を果たしてくれました。
  


Posted by 比嘉正央 at 10:34Comments(0)先生のひとりゴト

2015年04月03日

母への授業

母への授業

 母が入院して早一か月。
 87を迎えた母の体力の低下は著しく、数か月前までは何でも自分でこなしていたのですが、一気に衰えた感じです。

 しかし、母を苦しめるのは体のことよりも心のほうかもしれません。
 先日、病床からかかってきた電話では「どうしようもなく苦しい、すぐにきてほしい」というものでした。心の苦しみから解放されたいと安楽死さえ望んでくるのです。

 落ち着いた頃を見計らって私は母に「永遠の命」について話しました。
 肉体の死がすべての終わりではない、魂は永遠であるという主旨の話です。

 以前は、「そんなまやかしは信じない」と突っぱねていた母でしたが、この日は落ち着いて耳を傾けてくるようでした。
 葬儀の持ち方、お墓のことについて一通り希望を聞いた後、天に旅立つ前にすべき人の課題について話を切り出しました。

 母が抱えている課題は不安、恐れ、憎しみからの解放です。それが彼女の心を強く縛り、苦しめているのです。
 すべてはうまくいっていること、許しこそが今世の課題である。肉体の死後にある世界があり、先に亡くなった親やきょうだいも祝福していることを話しました。

 母の顔が少しずつ穏やかになっていくのが感じられました。
 すると母は「聖書でも7回人を許しなさい」と言っている、と2度その言葉を繰り返しました。
 それを語る母の声はあまりにもピュアで、それはまるで10代の少女のような声でした。
 そしてそれは、私と母のこれまでの会話の中で、最も意味ある会話になったと思います。

  


Posted by 比嘉正央 at 11:51Comments(0)先生のひとりゴト

2015年03月30日

天国は本当にある

天国は本当にある

 実話を基に作られたこの映画をみてきました。
 宣教師を父に持つ4歳の男の子が手術中にその肉体を離れ、天国を体験します。
 そこで彼はイエスに会い、そして会ったことのない祖父や、母親のおなかの中で亡くなったお姉さんと出会います。

 その男の子が語る体験を周囲の人は神を信じつつも受け入れきれません。
 それはまさに彼らにとって真の信仰が試される時でもあったのです。

 さて、このような類の話が多方面で話題になるようになってきました。

 アメリカの脳外科医が体験した天国に関する書物も興味深いものです。
 それは「プルーフオブヘブン」。
 そのような世界を信じなかった彼が自らの臨死体験によってそれを信じぜざるを得ない状況となり科学的に天国を証明しようとする試みを行ったのがこの本です。
 
 人は何のために生まれ生きているのか?
 その大切な問いに対する答えを見つけるために、スピリチャルな思考は必要となってきます。
 それは哲学を超え、すべての宗教の根底にある普遍的なものと言えるでしょう。

「天国は本当にある」
この映画を観ながら自然にあふれ出る涙をとうとう最後まで止めることはできませんでした。

 すべての人が見守られながら生きている

そんなことを実感できる時間でもありました。
  


Posted by 比嘉正央 at 13:03Comments(0)先生のひとりゴト

2015年02月25日

両親との日々

両親との日々

 私の両親はそれぞれ80代の後半を迎えています。
 二人してここまで生きてくれていることは本当にありがたく感謝しかありません。

 これまで、数年前にボケが始まっている父を支え、気丈な母は生活の全般を一人でこなしてきました。
 しかしここにきて突然、元気がなくなり、「体調が悪い」とここ1カ月は食欲が減退し、寝ている時間が長くなりました。

 私は小さい頃、夢で両親の死を体験し、布団の中で泣くこともしばしばありました。
 子供ながらに「こんな悲しみは味わいたくない」と両親の長生きを神様に祈ったものです。
 できれば自分の命を与えて自分が両親より先に逝ければと思ったりもしました。また、父を深く愛する母が悲しまないよう、父より少し先に母が逝くことが望ましいとも考えたりしていました。

  そして今、その祈りと願が現実感を帯びてきています。

 今晩、寝床に入った母と話をしました。
「人より二倍生きられた。しかし、避けられない道もある」母はこう何度も話しました。

 狭い部屋の空間で「親の死」という現実感に突然襲われました。
 身体の底から湧き出てしまうような涙を抑えるために部屋を出ようとも思いましたが、心の声はしばらくここにいることを促しているかのように感じました。

 その時が来るまで、「これからのことは包み隠さず話していこう」と二人で確認しました。

 9年ほど前、私は両親に手紙を書いたことがあります。
 直接言葉で言えない、親への感謝を手紙に託し伝えたのです。生きている間に伝えねばならないと思い、親子の間にある照れくささを押し込め、それをポストに入れました。

 数日後「手紙が届いたよ」とだけ母は私に伝え、そのことについてはこれまで話題にすることもありません。きっとその手紙はどこか大切なところにしまってあるのではないかと思います。

 唯物論者の両親の影響で、私はしばらくの間、神仏を信じませんでした。
 しかし今は、毎日神に祈っています。
 両親が神の恩寵に包まれますようにと

 どんなに親孝行をしても、どんなに感謝を言葉で伝えようとしても、その恩返しは受けたものの1000分の一にもなりません。

 祈りこそが私にできる最大のものだと思っています。

 母は何か起こっても延命措置だけはやってくれるな、と話しました。

 両親がやがて旅立っていくことを未だ受け入れられない自分がいます。

 買い物や食事を私がすることが多くなりました。
 母はそのたびに両手を合わせ、祈るように感謝の意を示すようになりました。
 厳しかった父も今はいつもにこやかです。
 思考も衰え、身体も動かなくなっているにもかかわらず、「何か私にできることがある?」
 と時々聞いてきます。

 両親との時間。その大切さを感じる日々です。
 
  
  


Posted by 比嘉正央 at 23:18Comments(0)先生のひとりゴト

2014年12月24日

チョコレートドーナツ

チョコレートドーナツ

 チョコレートドーナツとは映画の題名です。
 舞台は1970年代のアメリカ。
 親から見捨てられたダウン症の子供をゲイのカップルが親代わりになるという、実話をもとに作られた映画です。

 この映画には実際のダウン症の子供が出演し、ゲイ役の俳優も実際に自分がゲイであることをカミングアウトしています。

 それだけにこの映画は一つ一つのセリフにも魂がこもり、観る者の心に深く入り込んでいきます。
 社会に渦巻く差別と偏見の中、真実の愛を表現したこの親子は、法の名とのもと離れ離れにさせられます。

 親権を巡る法廷でのやり取りは、何が真実で誰がそれを述べているのか、我々は真実どう向き合うべきなのかを観るものの心を揺さぶり、そして迫ります。

 自分らしく生きること、そして人を尊重するとはどういうことなのか。
 その答えの一端がこの映画に表現されているかのようです。

 一人でも多くの方に観ていただきたい映画です。
  


Posted by 比嘉正央 at 16:02Comments(0)先生のひとりゴト

2014年07月25日

セディック・バレ

セディック・バレという2本立ての映画をDVDで観賞しました。
それは、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった 台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日暴動事件を扱った映画です。
霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした男たち300人ほどが、霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校で行われていた小学校・公学校・蕃童教育所の連合運動会を襲撃。日本人約 140人が殺害されました。

その後日本軍により彼らはほぼ壊滅。頭目モーナ・ルダオも山中で自決します。そして、女・子供たちも悲惨と言える最期を遂げていきます。勝ち目がないことを承知の上での蜂起だったのです。

死を覚悟しながらもなぜ彼らは立ち上がらなければならなかったのか?

映画では、部族出身者らを演技指導し彼らが主役を演じています。
しかも、原住民と日本人。どちからかを完全な悪とはせず、それぞれの人間模様が描かれています。
壮大な時代の流れに翻弄される人々。それでも誰もが必死に生きているその姿が映し出されています。


さて、私の話はこの映画のことだけではありません。
 観終わった後に感じたむなしさがありました。

 それは、私がこの「霧社事件」のことを何も知らなかったことです。

 中学の教科書でたった一行、この文字が記されていたことだけは明確に覚えています。
 授業で先生が読み流しただろうこの1行を、振り返ることもせず、ただテストのためだけの点数を取る対象でしかなかったのです。

 本当の勉強をしたかった、歴史から学ぶべき真に価値ある勉強がしたかった、という悔しさに似た感情が私を包みました。

 しかし、学校での授業スタイルはほとんど変わることはないでしょう。
 多くの子供たちが何のために勉強しているのか、よくわからないまま学校に通っているのです。

 学力向上は大切でしょうが、視点がずれては困ります。
 
 私は勉強に常に人間的価値観を盛り込むことを提唱しています。

 どの教科でも知識と共にそれを教えることが重要です。

 たとえば霧社事件を教える時に、すべての人を同じ人間として触れ合い、その文化をも尊重していくことが重要である、と価値観を盛り込むことができるでしょう。

 そして周りの批判を恐れずに、子供の立場に立った真の教育を推進できる教師の出現も求められているのです。
  


Posted by 比嘉正央 at 09:00Comments(0)先生のひとりゴト

2014年05月10日

その人の人生

 昨日、ハンセン病療養所協議会の会長、神 美知宏氏がご逝去されました。ハンセン病市民学会で草津を訪れているときに、突然帰らぬ人となりました。80歳でした。

 私はその前日、これからの人権啓発事業について新たなプランを神会長と話し合っていました。
 氏の言葉にはいつも聡明で、かつ深遠な感覚を覚えました。

 私の人生に大きな影響を与えた方でした。
 ご自分の人生を自らの苦難と、人々の救済のために捧げた人です。

 以前に神氏について投稿した記事を再掲載させていただきます。



 「その人の選んだ道」

  その人はいつものように、深い境地にあるかのように静かに語り始めた。不思議だ。この人の側にいるとなぜかこちらまで厳かな気持ちになる。魂が揺さぶられるのを感じる。その人とは、この6月に全国ハンセン病療養所協議会の会長に就任された、神美知宏(こう みちひろ)氏。

 彼は高校時代にハンセン病を発病、香川県の離島にある大島青松園に送られる。当時の我が国の法律によって、一生そこから出られないとわかった時から彼は「自ら死を選ぶべきか」を考える苦悩の日を歩む。しかし、そんな人間としての尊厳をすべて奪われた彼に「愛を打ち明ける」看護婦がいた。

  社会に渦巻く偏見の中、成就することのないその愛。二人は共に泣きながら別れの日を迎える。しかし、彼女が彼の心に巻いた種は、彼の中で生きる力へと育っていった。そんな彼が30代の頃、療養所の所長から「私の責任で君をここから出してあげても良い」という言葉を頂く。ハンセン病はすでに完治する病気でもあったのだ。しかし、悩んだあげく彼はその受け入れを断る。「私がここを出て誰も知らないところで病気のことを隠して生きていけば、人並みの生活が送れるかも知れない。しかし、私個人の幸せではなく、すべての仲間の幸せにつながるものを勝ち得ねば」。

 彼はその時、自らの人生をハンセン病の人権回復に捧げる決意をしたのだ。76歳を迎える神さん。彼は今日も自らの身体に鞭を打ち、人間の尊厳そのものを彼自身で表現し生きている。

  


Posted by 比嘉正央 at 09:56Comments(0)先生のひとりゴト

2014年04月28日

頑張る先生を応援しよう

 いろいろな子供たち、そして先生方との出会いから学校にエールを送りたいと思って書いたものです。
 先週の沖縄タイムス論壇に掲載していただきました。


頑張る先生、学校を応援しよう

新学年度が始まり、教師も生徒も意欲に満ちるこの時期。子供たちは新しい先生や級友との出会い、そしてこれからの様々な経験への期待に胸躍らせています。子供たちが自分の目標や夢実現に向かい、明るく楽しい学校生活を送ることを切に願います。
 一方、急速に進む情報社会の中で、子供たちも多様化し、保護者や地域とのかかわりのあり方など、先生方にかかる精神的負担もかなり大きなものとなっています。
 教師が一人一人の子供たちとじっくりと向き合う時間さえつくれない多忙な状況が現場にはあります。教師も多くの業務を抱え、その量も精神的負担も益々多くなる一方です。
 しかし、子供を預かる立場である以上、泣き言も言ってはいられません。
 私はNPOの立場で多くの学校を訪問し、子供たちや教師とも交流し、その心情をうかがってきました。その中で感じることは、沖縄の子供たちの情緒の豊かさや可能性の大きさ、そして先生方の子供たちへの深い愛情などです。そして同時に次々とやってくる難題にどう向き合っていかねばならないか、苦悩する先生方の姿も数多くみてきました。
 
 教育の話を様々な職種の方と話をするとき、必ずと言っていいほど「昔の教師は愛情深く良かった」という話題が出ます。しかし私はそうは思いません。若い人たちにも素晴らしい教師がたくさんおり、充実した研修制度の中で立派な人間性を持った教師がたくさん育っています。また、沖縄県は多くの臨時の先生方がたくさんおり、その先生方に支えられる側面も大きいことを忘れてはなりません。
  判断し批判の多くなったこの社会の中で期待の大きい教師や学校への非難も多くなっているように感じます。最も崇高な仕事であるが故、それも当然かもしれません。しかし大切なのは保護者や地域が学校や教師を支えサポートしていく姿勢です。
子供たちの健やかな成長を願い日夜努力している先生方がたくさんいることを知ってほしいと思います。もちろん教師も自己保身に走らず全力で子供を愛する覚悟で仕事に臨まなければなりません。
  親も教師も同じ人間、失敗もたくさんあることでしょう。しかし許しあい、認め合って共に学びながら学校を作っていく姿勢が必要です。互いの立場や違いを認めながら理解しあっていくことが求められています。
 そしてそれは必ずや子供にとってもプラスになっていくはずです。
 まさにそれは子供たちに求める人間関係を大人が模範として実践していくことでもあるのです。
  


Posted by 比嘉正央 at 10:07Comments(0)先生のひとりゴト

2014年04月24日

先生の褒められた 息子

先生の褒められた 息子


 家庭訪問の季節

 小6になる次男ははじめて担任の先生に褒めまくられました。

 「癒し系」「雰囲気を盛り上げる存在」

 何とも最高の褒め言葉です。

 その日は息子もずっと気分がいい様子。表情が輝いていました。

 先生にほめられるって、本当に子供にとって大きなことなんですね。

 けれどそれは、担任の先生の子供たちの「見方」でもあると思うのです。

 いいところをしっかり見て、褒めて、時には厳しく叱り、子供と向き合ってくれる。

 
  そんな素敵な先生との出会い、 

  ありがたいことだと思いました。
  


Posted by 比嘉正央 at 10:08Comments(0)先生のひとりゴト

2014年04月03日

旅立ちの4月に

旅立ちの4月に

 初めての我が子、長男が九州の大学に進学しました。

 入学式前日に私も共に出発し、新居のアパートの準備を整えるまでの3日間、私もそこに滞在しました。

 そして今朝、まだ寝ている息子にひと声かけ、そこを離れたのですが・・・

 その時、息子を一人置いていくことに何とも言えない寂しさを感じたものです。

 駅に向かって歩きながら幾度も涙が流れてしまうのです・・

 妻も主のいない彼の部屋を見るたびに、涙を流しているようです。

 思えば30年以上前、私が東京の大学に進学した時も父が今回の私と同じ立場でした。
 その時の父の気持ちがよくわかりました。
 父が去ったアパートの裸電球の明かりをつけた時に、私も涙が出てしようがありませんでした。「こんな寂しい思いをしてまで東京に来る必要があるのか」と少しの間思ったものです。

 願わくば私の息子はいつものようなポーカーフェイスでいてほしいものです。

 そして私がそうであったように、一度家を出ると、彼もなかなか帰ってこないかもしれません。

 これまでの家族に、人数が一人減ります。
 今更ながら、家族が皆揃っている当たり前の日常に幸せをもっと感じるべきだったと思います。
 

 これからは息子を信じて、任せることが私たちの役割になります。

 子の旅立ちに際し、親もまた解き放たねばならないものがあるのですね。

 息子よ
  私たちは君を深く愛している
  君は自分を信じて進め
  


Posted by 比嘉正央 at 21:22Comments(0)先生のひとりゴト

2014年03月27日

演劇「光の扉を開けて」を上演

 沖縄の子供、若者たちが演劇「光の扉を開けて」を熱演いたします。

 この劇は全国各地で毎年公演されているもので、ハンセン病やエイズをテーマとした人権創作劇です。

 ぜひ多くの方に観てもらいたいものです。

 重いテーマに足もすくみそうですが、観れば後悔することはありません。

 心の奥底からの感動をいただけることでしょう。そして生きる勇気も・・・ 知らねばならない真実も・・・


   3月30日(日曜日)  午後3時より  国立劇場小ホール

   入場料  大人1500円  高校生まで1200円

   主催   HIV人権ネットワーク沖縄  


Posted by 比嘉正央 at 10:29Comments(0)先生のひとりゴト

2014年02月20日

私の中のひめゆり

私の中のひめゆり

 久しぶりにひめゆりの塔を訪問した。
 その資料館へと入るとすぐに厳かな雰囲気に包まれる。
 修学旅行の高校生たちと一緒になったが、彼らの顔も駐車場での高揚した気分の顔ではすでになかった。ここでは、年齢も人生の経験も差はなく、誰もが同じ人間として「平和を願い、すべての人の幸せを願う」普遍的な思いに駆られる。
 ひめゆり学徒隊が歩んだその悲劇、散っていった者の写真、残ったものの証言などから、ここでしか味わえない平和の尊さを噛み締める。何度来ても新たな発見がある。

 私は訪問の度に、数多くある資料の中に一人の方を追いかけている。
 その方とは、学徒隊の生存者であり、そして私の小学校1年時の恩師だ。
 7,8歳の子供ながら先生がひめゆり学徒隊だったことを皆で度々うわさをしていた。先生はそのことを自ら話すことはなかったように思う。それよりも幼いながら私たちがその恩師から感じていたことは、一人ひとりの子どもに対する深い愛情とそして厳しさだった。
 先生の言葉はいつも私たちに真っ直ぐと伝わってきた。大事にされていることを知っているがゆえに、厳しさも素直に受け止めることができた。

 生存者の証言集の中に恩師の文章を見つけた。そこには「残されたものの使命を全うすべく」教師として歩む決意が載せられていた。
  その恩師との出会いから40年以上が過ぎ、あれから出会ったことはない。
 しかしその間も「ひめゆり」は私たち教え子の中に脈々と生き続けていたことを悟った。
  


Posted by 比嘉正央 at 18:00Comments(0)先生のひとりゴト

2014年02月07日

日本ハム監督 栗山という男 3

日本ハム監督 栗山という男 最終章

 過去2回にわたり日ハム栗山監督の人間的素晴らしさを紹介してきました。
 そして今回が最後となります。

 昨年6月、私は神宮球場でヤクルトとの交流戦を観戦しました。私はバックネットのすぐ裏で選手一人ひとりのプレーや表情を観察していました。その試合で驚かされるプレーがありました。それは大谷選手の左中間に放った長打です。走者を二人おき、試合が決まる局面。ライアンこと小川投手の外寄りの球を、一瞬それを見送るかな、と思った瞬間、スっとバットが出てきて瞬く間に打球が外野手の頭上を越えていったのです。
 大谷選手の柔らかで無駄のない感性が見事に表現された打撃だったと思います。
 その高卒のルーキーは投手としても勝利を挙げ、二刀流としての順調なスタートを切りました。多くの評論家は一つに固定するべきとの意見でしたが、このような新たな挑戦を促せるのも日ハム、そして栗山監督ならではの発想の豊かさや柔軟な考え方にあるのではないかと思います。
 さて、その試合後の夜、大学時代の同期が集い栗山と食事を共にしました。その時に彼が語った中の心を揺さぶる話を紹介したいと思います。

 日ハムにはサイレントKと呼ばれる左投手がいます。そうです石井投手です。彼は生まれつきほとんど耳が聞こえません。栗山監督1年目後半から大活躍しチームの優勝に貢献しました。140K前後のスピードと素直なフォームの彼が相手打者を面白いように翻弄していきます。
それは1球1球に思いを込めた彼の見えない力がボールに込められたものだと思います。
 そんな彼を栗山も信頼して使っていました。
 そして日本一をかけたジャイアンツとの日本シリーズ。短期決戦の中の一番のポイントとなる試合で石井は阿部に逆転ホームランを打たれることになります。
その時のショックは石井にとってどんなに大きなものだったでしょうか。彼は翌日のスポーツ新聞の「石井で負けた」の記事を部屋に貼り付けました。「この悔しさを絶対に忘れない」という思いだったのでしょう。

 しかし、その記事を家族はどんな思いで見ていたのでしょうか・・
 その後、栗山は石井投手の奥さんと優勝旅行で会い、こんなことを伝えたそうです。
「奥さん本当にすみません。石井で負けたことは納得しているし、こいつのおかげであそこまで行ったのに、最後は背負わせるようなことになっちゃって・・悔しくて新聞記事を貼り付けているって聞いて、本当に申し訳なくて。逆に感謝しているんです。本当にごめんなさい。(栗山英樹著「伝える」より抜粋 KKベストセラーズ出版)
 
 その場で奥さんは涙を流したそうです。それは言うまでもなく選手の家族も温かく見守る監督への感謝の気持ちだったはずです。そして栗山もそんな夫を支える奥さんの素晴らしい人間性を讃えていました。

 栗山と私が交わしたシーズン中のメールの中で一貫して彼が伝えていたことは、選手を信じることと愛することだけだったと思います。
 勝負の厳しい世界では、勝利を求めるあまり一番大切にすべき「人間性」や「信頼」そのものさえ捨ててしまうことが多々あります。
 しかしその厳しいステージの頂点に立つプロの世界で「それ」をコンセプトに戦っている監督がここにいます。
 
 それは単なる勝ち負けではない、重要なメッセージを私たちに送っているかのようです。

 野球を愛するたくさんの子供たちがこの沖縄にもいます。試合に出られなくても、あるいは勝てなくても一生懸命練習する純粋な子供たちがたくさんいます。そんな子供たちを指導者はしっかりと愛情を示し立派な人間として育てほしいと思います。

 実を言うと私自身、監督の経験があります。もうだいぶ前の話ですが当時を思い出すと「未熟で選手たちにも迷惑をかけてしまったな」、という反省の思いです。
 
 開幕はもうすぐやってきます。私自身「学びながら応援していきたい」と思っています。また何よりも、すべての球団の全ての選手たちにがんばってほしいと思います。
 素晴らしいプレーや感動を日本中に届けて欲しいと思います。
  


Posted by 比嘉正央 at 11:31Comments(0)先生のひとりゴト

2014年02月02日

日ハム監督 栗山という男 その2

栗山は学生時代から立派な人格者でした。一緒にいる大学の4年間、彼が人を中傷したりすることなど一度もありませんでした。それどころかいつも人を気遣い誰からも愛される男でした。

彼は投手で4番を勤めていました。全員で懸命に戦うチームとは言っても所詮は国立大学。並みいる私立の強豪校と戦うためにチームが栗山の力に頼るところも小さなものではありませんでした。
 投手としての栗山は球速こそさほどないものの、全身で魂を込め投げる彼の球は力のあるものでした。紅白戦で対戦するときなど、「なぜ迫力が他と違い,球が大きく見えるのか」不思議に思ったものです。

 1年時の秋のシーズンから私と栗山は試合に出始め、2年の春に大きなチャンスと巡り合うことになりました。6チームがリーグ戦で一位を競い優勝チームは全国大会の出場権を手にします。私たち東京学芸大学は順調に前半を戦い6戦全勝。優勝常連校の流通経済大学戦まで全勝で行けば、タイで優勝を争うことができます。向こうがいかに強い相手といってもタイの戦いならば何が起きるかわかりません。幸いチームの調子も良く、流経大前の創価大学戦も連勝で行けるだろうとよんでいました。
 しかし、勝負は甘いものではありません。チームはそこでまさかの連敗、しかも2戦目は私のエラーが決定的となって負けた試合でした。試合後私は涙が止まりませんでした。優勝は絶望的と思ったのです。
 しかし、少しの確率が残されていました。それは流経大戦に2戦連勝すればそこでタイとなり優勝決定戦に持ち込めるというもの。つまり3戦全勝すれば優勝できるというものでした。力からすれば、とても厳しいものであることは誰もが認識していました。

 その初戦。優勝を確信していたのでしょうか、相手の先発はエースではなく、3番手の投手でした。私たちは前半に大量点を獲得します。ところが勝利を目の前にした8回裏に栗山が相手の9番打者に満塁ホームランをあび、結局その試合は引き分けとなってしまいました。3戦全勝しなければならない状況で勝てる試合を落とした絶望感はとてつもなく大きなものでした。僅かな希望を持ち臨んだものの、この引き分けでさらなる奈落へと落とされたようなものです。引き分けのため勝敗に関係なく、そこから更なる3連勝が優勝のための条件となりました。

 2戦目のマウンド。そこには栗山が立っていました。我がチームの2番手もそこそこの力を持っていましたが、この状況では彼しかいなかったのです。
 その2戦目を8対6、3戦目を3対2で私たちは勝利しました。いずれも栗山が完投しました。そして迎えた優勝決定戦。4戦連続のマウンドに立つ栗山。満身創痍とはまさにこのことです。一言も弱音や愚痴を言わず黙々と投げ続ける彼の姿にチームの誰もが感動し、彼のためにも何とかしなければならない、と気持ちが一つになっていました。
 そして・・・まさに奇跡でした。追う展開の決定戦でとうとう8回に逆転。私たちは優勝したのです。
 その4連戦で栗山の投げたたま数は600球を超え、彼の心身はすでにボロボロでした。その一週間後の全国大会初戦で私たちは敗れました。彼の投げる球は中学生並みのスピードしかありえなかったのです。しかしそれでもスター選手を揃えた相手打線に5回まで持ちこたえたのはやはり彼のボールに込める魂の力そのものだったのでしょう。

この話にはこんなエピソードがありました。私はそれを卒業して5年後に知ることとなります。ちょうどその頃は栗山がヤクルトのレギュラーとして活躍している頃、彼のお父さんが話してくれました。

 あの連戦の初戦、9番打者にホームランを打たれさらなる絶望を味あった日の夜。
 疲れて気落ちした彼が家に帰ると、そこには玄関で立ち尽くす父親がいました。
 父親は息子の気のない一球がホームランになったこと、そしてチーム全員に申し訳ないことをした、という責任で、何と、道路の端でひざまずきを命じました。
 栗山の父親もやはり厳しく、誰に対しても愛情と情熱を注ぐ人格者でした。

 夜中の2時頃になって父親が迎えに行くと彼は神妙な顔つきでひざまずきを続けていたそうです。
 栗山は自分の苦しみを人に話さない性格だけに、それまで誰も知り得ませんでした。何とも栗山らしいエピソードの一つです。

 

 
  


Posted by 比嘉正央 at 10:22Comments(0)先生のひとりゴト

2014年02月01日

前世療法


  その時の私の姿は兵士でした。
私の眼から着ている服と右腰にかざした短剣が確認できました。
自分の顔はわかりません。
しかし、身も心もボロボロになっていることと、戦いに敗れ目の前にある自分の村に「やっと帰ってこられた」、という感覚は確信のように感じていました。

 その時、私の肉体は福岡市内のホテルの一室。ベットの上にありました。
 私は、アメリカ人の専門家から前世療法を受けていたのです。

 ベットに仰向けになりながらも意識ははっきりしている中で、彼の誘導に沿っていろいろイメージを行っていきます。そしてその最中に突然、兵士の自分が姿を現したのでした。  
そのビジョンはあまりにも思いがけずやってきて、自分がこれまで体験したことのない感覚に包まれました。

 小さな国が大国からの不正に苦しみ、その小国の男たちは敵地に乗り込みました。しかし、すべての兵士が命を落とす中で私だけが村の復興のために帰されたのです。

 その帰還が潔いものであったかはわかりません。しかも私の魂はその戦いの最中を見せることはしませんでした。
 村の復興、特に子供たちの教育を担わなければならないという使命感だけを強く感じていました。

 そして、ビジョンは私が家族に見守られ死を迎えようとするところにきました。
 家族は優しく見守っていましたが、誰もがその死を受け入れていたように思います。
家族への強い執着は互いにありませんでした。そこには涙もなく、さわやかな受け入れという感じでした。

 その療法が終わり、私はあまりにも鮮明なその光景を幾度か思い出していました。

 そして、その療法から2年後
 ある本屋で何気なく旅行雑誌に目を通している時に、あの光景に出会ったのです。
 山の傾斜に沿って並ぶ集落。レンガ作りの家々・・・
  
  そこはネパールのゴルカという街でした。
  そしてすぐに私はゴルカを訪れました。
  首都カトマンズからバスで8時間。いくつもの山腹を駆け回りやっとの思いで着きました。
  そこは国王の出生地。大国イギリスと戦った歴史がありました。
  
  ゴルカの時はあまりにもゆっくりと流れており、「時間」に重みがあるようにさえ感じました。

  顔見知りになった少年が、私がこの地を去る時、「自分を日本に連れて行ってほしい」とお願いしてきました。

  やがて彼はここに来ることになるかもしれません。それがどんな形になるかは別として・・・

  初めにネパールを訪れてから約20年。
  私たちはこの地に学校を作ることになりました。  
  
  今年も新入生を25名迎えることになっており、児童数は100名となります。

  ちなみに、私に前世療法を行ってくれた方の名は「ネビル・ロウ」
  彼は男性同性愛者でもありました。前世において、壮絶な戦争を体験し敵の男たちを
 心底、憎みました。彼はその憎しみを「愛」に変えるために同性愛者としての人生を選んだということでした。

   その彼も私が療法を受けた数年後に、登山に出かけ帰らぬ人となりました。
  彼のその肉体の最後がどんな状況だったのかは誰もわかりません。
   しかし、死を間近に迎える彼に「恐怖がなかった」ことだけは察しがつきます。

  肉体を一度離れ帰還した臨死体験者の多くが、生命に終わりがないことと、存在そのものが「愛」であることを悟るようです。

  やがてこの肉体を離れる時に、満足して安らかにそれを受け入れられるかが、大きな課題であるように感じています。
  
  


Posted by 比嘉正央 at 12:24Comments(0)先生のひとりゴト

2014年01月30日

日本ハム監督 栗山という男

 お断り
 この記事は沖縄で発行される野球雑誌に寄稿したものです。3回シリーズの1回目の原稿となります。



日本ハム監督 栗山という男

昨年のプロ野球開幕。
その日を私自身、特別な思いでこの日を迎えていました。
それは
大学時代を共に過ごした心友、栗山英樹が初采配を振るう日だからです。

 試合は予想通り、素晴らしい展開となりました。

 斉藤の先発、そして完投。
 持っている男が「背負っている男」に変貌する日でもありました。

 しかし、監督の栗山という男。
 彼こそ「持っている男」たと思います。

 プロの世界から見ると決してハイレベルとは言えない私たちの大学の野球部。
 それでも皆、夢に向かって一生懸命でした。
 歓喜の日もあれば苦しい日もある。負けて皆で涙するときも・・
 しかし、栗山はどんな時でも皆に優しく、弱音をはかない男でした。
 彼が先輩や後輩も含めて皆に与えた愛や優しさはどれほどたくさんで大きなものだったでしょうか。

 私は彼が与えたものが彼にしっかり帰ってくる奇跡を何度も目の当たりにしました。
 彼の元に集まってくる幸運。試合でいうならば、勝敗を決定するチャンスで彼にプレーの機会が巡ってくる。そしてそこで結果を出す彼の底力。
 そしておごらず謙虚な姿勢を貫き皆に配慮する誠実さ・・・

 テレビの画面から感ずる彼の人柄のよさもそれはほんの一部なのです。
 
 ダルビッシュが抜けた昨シーズンの日ハム。評論家は誰もがBクラスを予想していました。しかし結果は見事優勝。それにはどんな理由があったのでしょう。
 私が思うにそれは監督の人間愛そのものだったと思います。彼は常に選手を信じ、自ら積極的に心を開き話し合い、彼らの能力を引き出していきました。選手からも監督を信じる言葉、「監督のために」という言葉がたくさん聞かれました。。
 教師の世界でも「教師が生徒を信じれば能力が上がっていく」という興味深い実験結果があります。つまり栗山監督は人として最も大切な「人間愛」を厳しい勝負の世界で貫いていったのです。その意味においても彼の野球はこれまでのプロ野球界にある風潮とは違うものを見せてくれたと考えています。
 

 次回からは彼の人間味あふれるエピソードやシーズン途中で彼が私に話してくれた興味深い話を紹介したいと思います。
  


Posted by 比嘉正央 at 11:22Comments(0)先生のひとりゴト

2014年01月20日

バラの贈り物 NEW

 このエッセイはだいぶ前に一度書いたものですが、思うところあってもう一度あの時を振り返り、思い出しながら書いてみました。よろしければお読みください。



バラの贈り物

 もうだいぶ前の話です。そう、もう20年近く前。
 私はその夏、南インドの小さな町でホームステイをしていました。
 精神的な成長を求めてこの地を訪れたのです。
  ホームステイといっても離れのひと部屋を借りるだけなのですが、そこは水道もなく湧水をすくって日常を送っていました。

 お昼休み、私はお寺の近くにある大木の下に座って本を読むのが常でした。
 インドの暑い夏。しかしそこだけは、木陰に包まれ、いつも爽やかな風が吹いているのです。

 やがて地元の子供達と仲良くなるようになりました。そこには学校に行けない子供も多くいて、私がノートを差し出し、「ここに何か書いてみろ」というと子供たちは喜んでそこにいろんなものを書いてくるのです。
 自分の名前を書いたり、数字の100までかけることを自慢する子などなど・・

 そして、仲良くなった彼らの傷の手当てを日本から持ってきた消毒液とリバテープを使って行うようになりました。
 彼らの多くが裸足で生活しています。身体中に小さな傷跡が無数にあります。
  ほんの小さな手当に過ぎませんでしたが、彼らはそれをとても喜んでくれました。

 そんなある日、若いホームレスのお父さんが2歳くらいの子を連れてやってきました。
「私の息子を治して欲しい」、彼はそう言いました。
 彼の奥さんは道端で物乞いを行っていて、その子のことも時々見ていました。

 しかし、そのお父さんが子供の傷を見せたとき、それは簡単なものではないことを察しました。男の子の性器の周りに無数の出来物があるのです。
 
 私が行えるのはそこを消毒液で拭く事だけです。しかしそれでも父さんは喜んで両手を合わせて深く私に感謝してくれました。
 次の日も次の日もお父さんは子供を連れてやってきました。

 「どうすればこの子を治すことができるのか?」そんな思案にくれているとき、たまたま日本人の若い女医がその街を訪れました。
 彼女にすぐさま、男の子を診てもらうことができました。

 「梅毒の可能性がある」その女医は傷を見てすぐさまこう言いました。
 すぐに病院に連れていく必要がありました。もし、梅毒だとしたらそれは両親も感染していることを示し事態はさらに深刻なものとなります。

 その翌日、リクシャーという三輪駆動に親子を乗せ、遠く離れた無料で診療を行っている病院に向かいました。

 いくつかの検査をし、とうとう日本では見かけない大きな注射が子供に打たれました。
 幸い梅毒ではなく、あと一回の治療で子供は完治するとのことでした。

 その間も父親は泣き叫ぶ子供をしっかりと抱きしめ、誠実な態度で医者とも向き合いました。
 その姿に私は感銘さえ受けました。家もなく、その日暮しの彼らですが、その父親の子供に対する深い愛を感じたのです。

 病院からの帰り、私たちは子供服の店に立ち寄りました。
 その子は着る服もなくほとんど裸の生活です。衛生的にも彼の服が必要でした。

 洋服屋で彼らが選んだのは、10歳くらいの子が着るサイズです。
 これであれば、大きくなっても着ることができる、というのがそれを選んだ理由でした。

 その数日後、私が日本に帰る日が来ました。
 私は知り合いになったリクシャーの運転手にお金を渡し、来週その親子を病院まで連れて行く手配を済ませていました。

 親子には知らせずそこを去ろうと思っていました。
 しかし、リクシャー乗り場に行くと彼らがそこで待っていました。
 「今日帰る」ということを知った彼らは、そこで何時間も私を待っていたようです。
いつもは道端で物乞いをしている母親も一緒で生まれたばかりの乳飲み子を両手に抱いていました。

 その家族の一人ひとりがバラの花を持っていました。それは私に贈るためのものでした。
 その花を買うために彼らが使ったお金を考えると心が痛みました。
 しかし私にとってその贈り物はどんなものにも劣らぬ最高のプレゼントでした。
 
  そのバラを受け取るとき、涙をこらえるのがやっとでした。

 やがて私を乗せたリクシャーは、そのエンジンをフルに稼働させ大きな音を出しながら空港へと向かいました。

  その途中、リクシャーの運転手が私にこう言いました。

 「あの家族は子供の病気を治すために毎日神に祈っていた」
 「そしてその祈りに応えてあなたが来た」

 私はその言葉の重みを深く感じました。
 その家族とのふれあいの中で最高の贈り物を頂いたのは、他でもない私自身であることに気づかされたのです。

やがて夕方を迎えようとするインドの夏空にオレンジ色の龍のような雲が現れました。
それはあまりにも鮮明でさりげなく、そして美しいものでした。

 

 
  


Posted by 比嘉正央 at 11:33Comments(0)先生のひとりゴト

2014年01月12日

新米先生の涙

ある高校で講演後に、一つのクラスからのフォロアップ講義の依頼がありました。
依頼したのはそのクラスの担任で今年先生になったばかりの方です。

先生自身もクラスをどのように良くしていけばいいのか、きっと苦悩していたのでしょう。
打ち合わせで初めて会った時の表情にはそれが少なからず読み取れるようでした。

 一通り先生が感じているクラスの課題をおうかがいし、その上で私は「7つの習慣」を基盤とした『人生を成功に導く』価値観についての講義を行うことにしました。

 存在する問題に焦点を当てるのではなく、普遍的な人としての価値観に焦点をあてて、生徒に自らの生き方を考えさせようというのが狙いでした。
 どんな暗闇にも光をあてればそれはなくなります。人の課題や欠点も同じで良いところを引き出すことができれば、課題も自然と克服していることになるのです。

 実際の講義をはじめると、子供たちの表情から確かにクラスへの満足度の低さ、そしてどこに向かっていけばいいのかつかめないもどかしさから来るエネルギーの滞りを感じました。

 そんな中でも、心優しい生徒らは私を暖かく迎え入れ講義も順調に進んで行きました。

 しかし、私は内容を盛りだくさんで用意してしまい、講義内容を最後まで伝えることができませんでした。しっかりとしたまとめができないまま終わりの時間がきてしまったのです。

 授業の終わりを告げる鐘が鳴り続けていました。
 その締めをするために担任であるその1年目の先生が教室の前へ歩み出ました。

 その時、思いもつかない事態が起きました。

 その先生は、「今日の学習をみんなにしてもらって本当に良かった」と言葉を出しながら突然、涙をこぼしたのです。その後は泣きながら私への謝意を伝えました。
 先生が涙を流したその瞬間、生徒たちの視線は先生へ釘付けとなりました。彼らの先生を見る眼差しは真剣で温かみのあるものだったように思います。

 その涙が導いたこの瞬間の雰囲気こそがこのクラスに一番必要なものだったと思います。
 先生の人間味を、先生の苦悩を、そして何よりも先生の自分らへの「愛」を生徒たちは感じたのではないでしょうか。

 私が車で学校を去るとき、先生は礼儀正しくそして爽やかな笑顔で見送ってくれました。
 12月だというのに暖かな日差し。そして爽やかに吹く風があまりにも先生とマッチしていました。

  


Posted by 比嘉正央 at 00:16Comments(0)先生のひとりゴト

2014年01月10日

ある中学での職員研修


 ある中学校での職員研修に呼んでいただきました。
知り合いの先生の計らいで、放課後有志の先生方10名で90分間行いました。

この研修は私の講演後のフォローアップとして行われたもので、子供たちの人間的成長を促すための具体的な行動プランを共に考えていこうという目的がありました。

 その中でいくつかのテーマを私が上げ、それに関する先生方の意見や考えを述べていただきました。
 
 先生方の言葉一つ一つには感動させられるものがたくさんありました。教師としての使命や子供への愛情を感じさせられる意見が多く出されました。コーディネートする私も癒されるかのようでした。

 苦悩しながらも何とか前へ進もうとするその姿勢に改めて現場で奮闘する先生方の偉大さを感じたものです。

 そしてこの研修は私にとっても意義あるものでした。先生方の内面にある思いを引き出し、それを言葉にすることで共有できる教師同士の連帯を生み出していく手法の自信を得ることができました。

 教師の人間性はとても重要なものです。
 しかし、それは関係ないと主張する先生にも少なからず会ってきました。
 完璧にはできなくとも常に自分が成長しようとする姿勢を子供に示すのはとても大切なことです。
 この学校では2週にわたり私が授業を行います。そしてまとめの3時間目には各担任が行うことになっています。
 教師と生徒が信頼を築いていけるようなそんなきっかけにしていきたいと思っています。
  


Posted by 比嘉正央 at 11:54Comments(0)先生のひとりゴト